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ハンガリーてくてく日誌2

ブダペストの大学で日本語を教えたり、ハンガリーの絵本を翻訳したりしています。指の間からどんどんこぼれ落ちていってしまうような毎日を、少しでも書き留められたらいいなぁ。


by pitypang2

「被爆者の声」講話会

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ご縁があって、広島平和記念資料館のご協力で
広島の被爆者の方の講話会を開かせていただく機会に恵まれました。
現在、ブダペストの岩の病院・核の避難所博物館で
「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」が開催されており、
そのオープニングに合わせてこちらにいらっしゃる被爆者の方を、
大学にお呼びできることになったのです。

お話が来たときは、正直に言えば、
ありがたいという気持ちよりも
不安の方が勝っていました。

例えば、
①試験期間中の土曜日で大学生の参加はあまり見込めず、
参加者が十分集まるかどうかわからないこと。

②大学の事務の人たちの責任の所在がいつも曖昧で、
教室の確保に関して開催まで全く気が抜けないこと。(しかも土曜日)

③ご講演者は日本からはるばるやってくるお客様、しかも、ご高齢(86歳!)で、
かつ、相当につらい経験をしていらっしゃること。(→ 緊張します)

④私自身が、小学生の時に見たアウシュビッツ展がトラウマになってしまっていて、
戦争体験などを見聞きするのを極力避けてしまっていること。

などなどなど、です。

でも、終わってみたら、次のような感じでした。

①に関しては、最終的に、
前日に同じ講話会を行ったもう一つの大学も150人ぐらい、
こちらの大学も150人ぐらい、計300人ほどの人数が集まりました。
もう一つの大学ではもともと大きい部屋だったので
ギリギリで入ってもらえましたが、
うちはもっと小さい部屋が予約してあったので、直前に変更しました。
ほかのどんな講演であっても、なかなかここまで人は集まらないので、
これは本当にハンガリーの方々の本件に対する関心の高さを示していると思います。

②に関しては、何か月も前に予約して以来、何度も確認してきたのにも関わらず
結局「祝日なので土曜日は大学が閉鎖される」と2日前に言われてかなり焦ったのですが、
最終的には同僚の協力もあって、より大きい部屋がとれました。

③に関しては、
ほんとう~~に、ほんとう~~にすてきなおばあちゃんでした!
講話会の前に少しだけ観光にお連れする機会があったのですが、
どうしてそんなにつらい思いをしてきたのに、
こんなに明るく、かわいらしく、控え目で、かつ、凛としていらっしゃるのだろう、
とびっくりしてしまいました。
一方、お話は本当に、その体験を潜り抜けてきた人にしか語れないものでした。
私は事前に原稿を読ませていただいたのですが、
実際にお話を聞いたら、心への響き方が全然違いました。

原爆投下直後のエピソードの最中、
観客の中で一人の男性が奇声を発しました。
後から聞いた話によると、最近解剖を見た経験があり、
お話がそれとリンクして、気絶してしまったのだそうです。
それと前後して、数人が黙って客席を立って出ていきました。
それくらい、聞いていられない人が出てくるほど、凄惨なお話でした。

講演者の梶本さんは、戦後10年ほどは
アメリカを恨み、日本政府を恨みながら生活していたそうですが、
お嬢さんを身ごもった時、
「誰かを恨みながら平和なんか望めない」と、はっとしたのだそうです。
そして、今も日本を脅かしてくる国はありますが、
政治家はなぜしっかりそこに行って話をしないのか、と思っていらっしゃるそうです。
(被爆者は証言で政治の話をすることは止められているそうで、
これは観光に行った時に個人的に少しお話しくださったのですが。)
本当に、そう思います。
そんなことは甘い、という人もいるかもしれないけど、
逆に、事の恐ろしさをわかっていない、平和ボケした現代人だからこそ、
防御・反撃の準備をしようとしたりしてしまうのではないでしょうか。

梶本さんは小学校5年生のころから
先生になりたかったのだそうです。
でも、14歳で被爆し、そこからは一家の大黒柱として
20年間もほとんどずっと病院で過ごしたお母さんの入院費の工面をしながら
3人の弟さんを育てなければならず、
その夢をあきらめざるを得なかったのだとか。
原爆の話は誰にとってもつらく心に突き刺さるものだったと思いますが、
私が個人的に印象に残ったのは、その先生になりたかったというお言葉でした。
平和な時代に生まれて、成り行きで先生になり、
ふわふわと楽しんでいる自分が恥ずかしくなりました。
時代のせいで、なりたくてもなれなかった方もいるのだから、
この幸運をかみしめて、もっとしっかりしなくては。

うちの学生がご講演後、梶本さんの近くに寄ってきて、
「梶本さんは世界の先生です。世界の平和の先生です。」と言うと、
梶本さんは最初、意味がわからず聞き返していらっしゃいましたが、
ご理解されて「何言ってるんですか、そんなことないです」というようなことをおっしゃり、
その後、眼鏡を上げて、ハンカチで目をおさえていらっしゃいました。
本当にその通りだなと思い、私も、最後のお別れの時、
「梶本さんのような先生になりたいです」とお伝えしました。

すさまじい経験をした上で「世界の先生」になった梶本さんと比べるのはおこがましいけど、
私も、直接的な努力はあまりしてこなかったものの、
先生になりたいという思いは子供の頃からずっと心にあったのです。
こうして、いつかなりたいと思っていれば、
もしかしたら想定していたのよりももっと大きくて、本人にとっても予想外な形で、
夢がかなったりするわけなのです。
私も梶本さんのように、自分の経験や気持ち、信念などを生かして、
人の心を揺さぶれるような先生にいつかなれたら、と思いました。

ちなみに梶本さんは、約150人を相手に2時間お話しされた後、
資料館の方と一緒に、地下鉄で嬉しそうにオペラ座に向かわれました。
「どうしてそんなにお元気なんですか?」と聞くと
「だって、せっかく来ているんだもの、もったいないじゃない!」とのこと。
被爆し、胃がんで胃を3分の2摘出した、86歳のおばあちゃんです。

④については、私は次回帰国した時には必ず広島に行くと決めました。
それだけです。

写真は、梶本さんが持ってきてくださったもの。
90歳のお友達が作って、「外国の学生さんたちにあげて」と、
梶本さんに預けられたのだとか。

梶本さんと、ハグをしてお別れしました。
「ハグをしてもいいですか?」と聞くと、
「んまぁ~、ハグ!ハグだなんて!」とおっしゃいながら、
抱きしめ返してくれました。
どうか、またお会いできますように。








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by pitypang2 | 2017-06-03 23:30 | Comments(0)