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ハンガリーてくてく日誌2

ブダペストの大学で日本語を教えたり、ハンガリーの絵本を翻訳したりしています。指の間からどんどんこぼれ落ちていってしまうような毎日を、少しでも書き留められたらいいなぁ。


by pitypang2
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 1週間あった秋休みも、今日が最終日です。
 今日は思うことがあって書いています。完全備忘録で、長文です。(なんで備忘録をこうしてブログに書くといいかというと、自分しか読まない日記だと、わかりやすく書こうということに意識が向かないからです。そうすると、あとで読み返しても、結局よくわからなかったりしてしまうのです。私の場合。)

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 ドラマ『先に生まれただけの僕』を見始めました。その第3話で、主人公が付け焼刃でアクティブ・ラーニングをやってみて、最初はうまくいったように見えるんだけど結局失敗してしまう、という場面がありました。
 どういうやり方だったかというと、主人公はまず、生徒全員の名前を書いたマグネットを黒板に貼って枠で囲み、「君たちは今、Startにいます」と言いました。そして、矢印を描いてGoalの場所を作り、「今から自分たちでこの問題を解いてください。解けた人は、僕のところに来て、答えを言ってください。答えが正しければ、Goalの方に移します。解き方は、ほかの人と相談してもいいです。全員がわかるようになることが目的です。制限時間は30分。」と言いました。
 そう言われた生徒たちはびっくりして、最初は講義型ではない授業の雰囲気を楽しんで盛り上がりました。でも、最終的には、わかる生徒からわからない生徒、わからない生徒からわかる生徒に対する苛立ちが生じ始め、結局、30分で全員理解という目標を達成することなく、授業はもやっとしたまま終わってしまいました。
 そのあと、それまで地味な感じで登場していたほかの先生が、主人公に「今までは学校の方針で講義型授業をしていたが、実はアメリカでアクティブ・ラーニングの勉強をしていた」と打ち明けます。主人公はその先生にアクティブ・ラーニングの授業をすることをお願いし、見学させてもらいます。その授業では、先生は極力全部英語で話していました。内容は、There is..., There are...を使って、ペアで、お互いの絵を見ずに2枚の絵の間違い探しをする、というものでした。生徒たちはそれを楽しみ、盛り上がり、そしてきれいに収束して終わりました。

 話は変わって、昨日私は修士課程の学生たちに、「今までの授業では教師(私)主導だったので、みなさんは受け身で、あまり面白くなかったんじゃないかと思います。ちょっと今学期の後半はやり方を変えようと思いますが、どうですか?」と、メッセンジャーで聞いてみました。ドラマの影響なのではなくて(笑)、ちょっと前から悩んでいたけれども変えるタイミングがなく、秋休みを狙っていたのです。以前に参加した教師研修で「授業についてのアンケートは学期末に行ってももう改善ができないので、中盤で行った方がいい」という話があったことも思い出していました。
 今年の修士課程の学生はレベル差が大きく、1週間に1回の授業で何をどうすれば全員のレベルが上がるんだろうと、私は少し焦っていました。焦る一方で自分ががむしゃらに努力したかと言えば全くそうではなく、今思えばただの怠慢です。でも、初めは「まだどうなるかわからないので、スタートしてから様子を見て変えよう」「臨機応変が大事」と思っているところがありました。それで、折り返し地点に来てふり返ったら、授業の中でも教科書を使った部分については、普通に自分が仕切って学生に読んでもらったり質問に答えてもらったりするだけだった、というのを感じ、やり方を変えたいと思ったのです。
 そもそも週1の授業だけでレベルが飛躍的に上がるわけがなく、何とか自分でたくさん頑張ってもらうしかないので、「それぞれが読みたいものを読んで持ってきて、それについてハンドアウトなども作って説明してもらう、というのはどうでしょう」と提案しました。その裏には、前にもブログに書いたことがある「授業では私の出番は少なければ少ないほどいい」という思いがありました。
 でも、それまで続いていた学生たちとのやりとりが、その提案を機に、ぴたりと止まってしまったのです。学生がよく思っていないことは明白。オンラインでの文字のやりとりにおける沈黙から何かを察するのは難しいですが、普段の彼らの様子を見ていて、単に「めんどくさい」と思われたのとは違うものを感じました。
 改めて学生の立場に立ってみました。「今更?」「教科書の予習、けっこう先までしてあったのに…」「今までのことはなんだったの」いろんな思いがあるんじゃないかと思います。私に対して「おいおい、しっかりしろ」ぐらいのことは思ったかもしれません。「うわー、私、迷走してるな」と感じました。
 今は、「とりあえず、次回の授業で話し合いましょう!今までと同じやり方をつづけるのがよければそれでもいいし、私が提案したのとはまったく別の方法に変えてもいいと思っています。」というところで止まっています。

 そしてまた話は変わるのですが、昨日、旦那とルダシュ温泉に行ってきました。
 私はその修士課程の授業の話を旦那にしました。旦那は「グループを引率する上で大事なのは、一番最初に枠を決めることだと思う。枠さえしっかりしていたら、中身は途中で変えても大丈夫だし、毎回違うことをしても大丈夫。その枠を、最初にみんなで一緒に決めて、コンセンサスをとることが大切なんじゃないかな」というようなことを言いました。
 まさに欠けていたのはそこだな、と思いました。途中で方法を改めることも、もっと学生の自主性に任せることも、決して悪いことではないんです。それが一番最初に話し合って同意を得られていたことであれば。今学期は、最初に話し合いはしたけれども、結局それを私の方でまとめて出発し、途中で方向転換するかもしれないという話もしませんでした。それを、「今までのやり方はよくなかった気がするから変えよう」と言われても、学生は混乱するわけです。
 教師生活がだんだん長くなってきて(まだまだですが)、調子に乗っているところがあったんじゃないかな、とも思います。「なんとかなる」と思って見切り発車だったり、準備が充分じゃなかったり、なんだか「こなしている」感じの授業になってしまっていたり、ただ「授業終了時間までの時間を埋める」という感じになってしまったり。

 そして話を戻すと、ドラマの話も、結局やっぱり、前者は枠が曖昧すぎ、後者は枠がしっかりしていたということなのかもしれないと思うのです。枠をどうするかというのは、教師の腕の見せどころでもあり、学習者との信頼関係によって築き上げるものでもあり、授業をする上での一番難しくて大切なところなのかもしれません。実際は、クラスによっては、「今から30分で、周りと相談しながら解いてね」というのがちゃんと枠の中に入っていて、十分いい授業にもなるということもあるし、逆に、上記の間違い探しのような問題が、学習者の主体性を引き出すことなく終わってしまう可能性もあるはず(インフォメーションギャップを使った問題は日本語教育ではすでに90年代からあるけど、だからといって必ずしも学習者が主体的に取り組んでいたというわけではないと思います)。クラス全体で決めて納得した枠に合わせ、中身をクラスの構成員の性格や、教員との関係や、その日の雰囲気などから判断するというのは、やっぱり教師の能力によるものです。その能力は、経験によって上達はするけれども「自分は習得したからもう大丈夫」と思ったとたんにダメになってしまうようなもののような気がします。
 ドラマでは、主人公のクラスでは最後に「どうして数学を勉強する必要があるんですか」と聞かれ、主人公は答えられません。あとから出てきた先生の方では、「どうして英語を…」と聞かれ、先生はきっちりと説明できます。一つひとつの授業の目的はもちろん、遠い先を見据えた目的までちゃんと先生が把握していて初めて、枠がしっかり成立するのかもしれません。

 ちなみに、ルダシュ温泉に着いた時、旦那はとつとつと「宗教の修業も、音楽やダンスなどを究めることも、辞書を編纂したり小説を書いたりすることも、根本的には同じ。とんでもなく苦しく、とんでもなく強固な意志が必要で、果てしない時間が必要な作業。前進はするけど、永遠に終わらない。」というような話をしていました。私にとって、一人で苦しみながらコツコツと何かに向き合った時間は修論を書いていた時くらいかなぁ。でも、結局その分野での研究を続けていないので、「究めた」感は持っていません。あとは楽しくふわふわと生きてきたのが自分の人生だったという気がします。そういう、己を捨て、自分の意志だけをたよりに、苦しみながら没頭するという経験が少ないことが、いざという時の自信の欠如とか、仕事における芯のなさなどにつながってしまっているような気がした、秋休み最終日なのでした。


※写真は修士課程の授業ではなくて、学士3年生の、日本人ゲストに来ていただいて行っている授業のものです。





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by pitypang2 | 2017-11-05 21:04 | 日本語教師のこと | Comments(0)