タイトルは今、ほかの日本語教師の方へのメールに
自分が書いたことからの引用なんですけど、
気に入ったのでここにも書いておこうと思いました。
私は今、
「適切ではないかもしれないけど、元気で、自分の頭と声を持っている」
そんな学習者にとても惹かれます。
例えばある学生が東京に留学していた時、
スーパーでいつも店員さんに「こんにちは」と言って
最初は笑われたと言います。
でも、いつも挨拶していたら、
挨拶しない日は心配されるようになり、
そのうち店員さんたちの方から挨拶されるようになったと言います。
「適切」ではないかもしれないけど、
この学生は自分がやりたいことをしっかり自分の頭で考え、
あきらめずに自分の声で伝えています。
私は日本語の授業で挨拶を教えるときに
「日本ではお店に入ったときに店員さんに挨拶をしない」と教えていました。
それは「適切」なことかもしれません。そういう文化ですから。
でも、それを教えて身につけさせようとすることは
果たしてよいことだったのかどうか。
私は一方的に自分の考えを押し付け、
無意識に日本人への同化を求めていたのではないでしょうか。
昨日は久々に大学の書道クラブをのぞいてみました。
たまたま日本人の留学生の方が4人も来てくださっていました。
書道クラブ主催者の男子学生は一生懸命、日本語で
「このクラブでやりたいことは
『この字はこうした方がいい』
『このやり方はダメ』
と教えることではありません。
書道を楽しむことです。
楽しんでください。」
と説明しました。
そして、その日に書く字を説明し、道具をみんなに配り、
みんなが静かに書き始めてからは、
その主催者の男子学生は
ただみんなのために黙々と模造紙を半紙の大きさに切っているだけで、
日本人のみなさんにアドバイスを頼むこともないし、
自分が教えたりもしません。
字を書いている学生たちの中には、
誰にも正しい姿勢を教わっていないので肘をついて書いている学生もいたし、
主催者が提案した字とは全然違う字を書いている人たちもいました。
ただ言えるのは、みんな黙々と字を書いているということ。
主催者は一度、日本人の方が「洪牙利」と書いた作品を借りて
ハンガリー人参加者たちに見せて「ハンガリーだよ」と説明していました。
その後、私は最後まで残らなかったけど、
おそらくみんな楽しんで字を書いていたはずです。
前回は書道クラブの終了と私が仕事が終わって帰る時間が重なったので
最後だけ覗いてみたのですが、
主催者の男子学生が、帰っていく参加者のハンガリー人学生たちに対して、
「来てくれてありがとうー!」と言っていたのが印象的でした。
「適切」ではないかもしれないけど、
主催者の学生は自分がやりたいことをしっかり自分の頭で考え、
自分の声で伝えています。
数年前の私なら「日本人の書道経験者にやり方を教えてもらったら?」とか
「書道の正しい姿勢はこうだよ」などとしゃしゃり出てしまった気がします。
伝えたい「声」がなければ、言葉には意味がありません。
言語学習にはどうしても正誤が存在し、それはおそらく避けられませんが、
「声」をつぶしてしまうような教育にはならないように気をつけたいと
最近はそんなことをよく考えています。
写真はうちの窓から見えた朝焼けです。意味はなし。